本堂(解体修復) 江戸時代享保六年 横浜市指定文化財
本堂は解体前までは元禄の頃の創建であろうと言われておりましたが、解体時に天 井裏の太い梁が重ねて繋いである中に下記墨書があり、創建年代が確定しました。 これは建前の時でなければ書けませんし、解体しなければ発見出来ないものであり、 学術的にも権威があり、価値があるとのことです。
当寺建立 亥ノ年ヨリ、丑ノ年迄三ケ年成就 密資法印 祐算
当院二十五世住僧 先住廿三世 法印円祐
弟子 祐算 貧道 敬白
旦方 世話人 佐藤清左右衛門 同 酒川五左右衛門
惣旦那 大工 賀瀬村 青山市郎右衛門
享保六辛丑天十二月吉日
更に向拝の左の柱の礎石の上面、柱で見えない所にも享保六年(1721)の鑿刻があり、創建年代の実証を深めています。
この祐算法印は円祐法印の弟子で、円祐法印は天和二年(1681)に亡くなり、祐算法印は天和・貞享・元禄・宝永・正徳・享保と
五十年間、元禄を中心とする文化を身につけた傑僧であったと想像出来ます。
また、歴代住僧の中で唯一人「中興」と特記され
ています。
世話人佐藤清左右衛門とは、現在の佐藤忠夫家、世話人酒川五左右衛門は、現在の酒川国男家です。
世話人の二人が中心となり、惣旦那とありますので檀徒総力をあげて創建されたものです。
内陣の本尊様を安置する須弥壇は、米山敏春家先祖の寄進によるものです。
西方寺の本堂は、内陣を含め六間と内廊下からなり、外回りの雨戸は横桟の入った舞良戸で、内陣は四方桝組み、
折り上げ格天井で各の格に春夏秋冬の四季にわたり草花の絵が描かれ、それぞれの季
節感を表現し、内陣と外陣の境の欄間には正面に龍、左右には飛天の彫刻があります。
内陣には両側に六枚ずつ十二枚の杉戸があり、外陣にも四枚ずつ八枚の杉戸があり、
これらも特に文化財に指定されています。全体として優美で、格調の高い本堂でござ
います。
←本堂が修復されるまでの写真が記録されておりますので
どうぞご覧ください。