西方寺の沿革
西方寺に伝わる江戸時代の霊簿(過去帳)の題辞に西方寺は源頼朝卿の頃、
建久年間(1190)に鎌倉の笹目と言う所に「補陀洛山、安養院、西方寺」として創
建され、開山は大納言通憲公の息、醍醐覚洞院座主、東大寺の別当であった
勝賢僧正であると記しています。
頼朝公は勝賢僧正に帰依し、東大寺の復興にも努力し、勝賢僧正を度々
鎌倉に招いている亊が色々な文献に出ています。金沢文庫の古文書にも笹目
に西方寺があったことが明記されています。後に北条重時が忍性菩薩を招き
鎌倉に極楽寺という広大なお寺を創設します。その全盛期を示す極楽寺古絵図
の右下に「西方寺」の寺名があり、付近の笹目にあった西方寺を極楽寺の一山に
移したとされています。また、同寺中古図には「西方寺屋敷今無シ」と記していま
す。このことは、西方寺が更に他に移されたこと物語っています。
笹目谷にあった西方寺の遺址は明瞭でありませんが、極楽寺の一院として存在した西方寺は、極楽寺坂切り通しの北側崖
上にあり、その付近が古図に示す西方寺の所在と一致し、歴代住侶の墓石十基ほどを残し今も存在し、西方寺跡とされてい
ます。そして、新羽町西方寺檀徒の古老の間に「西方寺は極楽寺から船で鶴見川を遡り、新羽の勝地をトして建てられた」と
いう言い伝えが残されており、また本尊の阿弥陀如来は「黒本尊」として親しまれてきたとのことであります。
ここで西方寺は最初笹目に創建され、後に極楽寺に移建され、更に新羽に移転されたわけです。極楽寺は、古図に見るように
多くの堂塔をもつ大伽藍でありましたが、特に施薬院、老病院、ライ病の病棟、馬の病棟などを持ち社会事業もする総合的な
お寺でございました。ところが、新田義貞が海から鎌倉に討ち入りし戦場となり、北条氏は滅亡し、お寺も戦禍を被り衰微し、
中古図に見られるように堂塔がなくなり、西方寺も新羽に移建され「西方寺屋敷今無シ」と記されている訳です。
鎌倉に幕府がありましたので、各地方から鎌倉に通じる道が出来て、これをかまくら街道と言っていますが、特に新羽は鶴見川
を通じて鎌倉との交流が繁くあったものと思われます。極楽寺にあった西方寺が新羽に移される理由として、当時新羽の地は
上杉家の領地で、現在西方寺跡に残る墓石群の中に関東管領上杉憲方の逆修塔があることからしても頷けられ、西方寺の霊
簿には新羽の地を賞賛して「武蔵國光明耀々黄金峰彌陀観音浄土日域無双在霊地」と記され、阿弥陀如来の境内として優れ
ていると記され、鶴見川は特に上げ潮の時は新羽の「大まがり」あたりまで逆流して船の上りを助け、船の通運に便利であり、
鎌倉との文化の交流にも役だっていたことと、新羽の地は鶴見川の恩恵で米もよく取れ、西方寺を受け入れる程に豊かであっ
たと思われます。要するに西方寺は、笹目、極楽寺、新羽、へと三転し、極楽寺より西方寺が移転されたのは、明応年間(1492)
で今から五百年ほど前のことです。それ以前から、現在の境内の処は山の中腹であって裾の平地に保安寺があり、西南の現在
観音屋敷と呼称されている所に観音院があり、北東の現在墓地山際に明月院桜池庵がありました。